北海道じゃ七月になってもはっきりしない天気が続いていて
なんやこれは、これでも夏か?
という状況だったんだけど、先週になって急激に気温が上がって30度くらいになり
と思ったらその次の日には下がって20度くらいになり
と思ったらまた次の日には30度くらいになるという
極端な上げ下げで日常生活を送っているだけなのに体が壊れそう。
今週中はずーっと30度くらいの気温が続くらしく、
家が冬向けの構造をしている北海道では、
夏場の本州方面に勝るとも劣らぬ地獄になりそうな予感。
…基本北海道民の家にはエアコンとかないですし。
先週半ばからジャイアントまりんの10話が始まったんだけど、
ニコニコの方に「こんな意味のない更新形式やめませんか」
なる書き込みがあった。
意味のない更新形式というのは一日一ページ更新のことだろうが、
これを「意味がない」と言ってしまうのはニコニコだけでの見方でしかないと応じておこう。
ニコニコでは「新規投稿(つまり新しい話を投稿)」した時しか
トップページに表示されないのだが、
マンガハックなど他のサイトでは、新規投稿でなく従来の話に1ページ足しただけでも
「新規更新」としてトップページに表示されるのだ。
これが意外と馬鹿にしたもんでもない。
例えばマンガハックでは不動の地位にある「王様ランキング」や「ガリャ山ポヨ美」は
ある程度まとめて更新されるが、それが「今日のランキング」に表示されるのは
せいぜい一日か二日程度である。
これはその時だけ集中的に見られてすぐに落ちてしまうから。
しかしジャイアントまりんは毎日更新形式のおかげで、
調子のいい時は一か月くらいずーっとランキングに名を連ねていたことがある。
これは宣伝面においてとても重要な効果だ。
いやまあ「描きためがあって余裕があるんでしょ、もっと公開してほしい」
という気持ちも分かる。
しかし描きためがあるのも、日程的余裕をもって製作してるのも
「(病気や不幸など)不慮の事態で描けない時の備え」であり、言うなれば予備日だ。
本編を描き終わった後には電子書籍用のおまけや表紙イラスト、
あるいは今後登場するキャラやメカの設定を作って、
それでも残った日にエッチ気味なイラストを描いていたりするわけ。
そのイラストだって、僕自身の宣伝と練習のために描いてるんで
単なる暇つぶしと言うわけでもない。
そのあたりご理解いただければ幸いである。
というのをニコニコにコメントとして入れると「ああだこうだ」と言い合いになりそうなので
(ニコニコにはそういう雰囲気がある)、ここに書いた。
コメントした人が読んでくれるかどうかはわからないが…。
以上、本日の前置き。
ここからは先週全編公開したジャイアントまりん第九話の製作裏話をしていこう。
第九話はこの漫画における最強のキャラクター・ドノヴァンが自らやってきて、
こいついったいどうしたらええねん…と
いわゆる「ラスボスがいきなり現れて、主人公に実力差を見せつける回」なのだが、
そこにおとぎ話さながら「頭のいい(こずるい)少年が怪物を知恵でやりこめる話」
をミックスすることでギャグ漫画としての落としどころを作った。
ドノヴァンは設定的には何でもできる「神」に等しいキャラで
アメコミでいうところのドクターマンハッタンみたいなやつである。
マンハッタンは、DCユニバースの名だたるヒーローが束になっても勝てないバケモンで
その強さの一端として彼が元時計職人かつ科学者…つまりインテリ層だからというのがある。
ドノヴァンはそのインテリ部分を全部とっぱらって脳筋に交換。
最強だし、ナムとまりんにとっては敵だが、
悪だくみできるような知恵もないので悪ではない。
コメディ、ギャグマンガの登場人物にふさわしいある種の可愛げを与えたのである。
宇宙一の天才を自称するナムですらお手上げというドノヴァン。
しかしこのナムのセリフが、すでに読者やまりんに向けてのブラフになっている。
宇宙一の天才が「宇宙一強くて神に等しいドノヴァンが
いつかやってくることを予想していないわけがない」のだ!
まりんにあたえた策で時間稼ぎすれば、その日はドノヴァンが撤退に至るかもしれない。
しかし彼が五体満足であるかぎり、また次の日現れるかもしれない。
ナムの狙いは最初から、当面ドノヴァン自身がやってこれないだけのダメージを与えること。
敵を騙すにはまず味方から、を実践したのである。
いやな子供だなあ。
こうした作戦方面は、我ながらそこそこ上手くえがいたなあとは思ったが、
一方でしくじったなと思ったのはマイクロブラックホールの件。
最初はブラックホールの入ったバーベルを持ち上げるという構想だった。
でもそれじゃビジュアル的に面白くない。
じゃあブラックホールから噴出する宇宙ジェットを支柱にしようぜ、
とSF的にあほな設定を考えて自分でウケた。
しかしネームができた時点で、ブラックホールの解説ページを入れる隙間がどこにもない。
…いやー、でも分かる人だけ分かればいいかー。
といつもの(オタクネタな)ノリでGOを出してしまう。
実際の投稿を始めてからこのあほな図が読者に伝わってないことに気づき、
急遽途中のページで欄外に解説を入れるハメになった。
まあそうよね。アニメ漫画ゲームのネタに比べると
ブラックホールの構造とか詳しい人口って少ないよね。
我ながらたまに視野狭窄でやってしまうミスである。
反省して有料版にはちゃんとした解説ページを入れることにした(反省…?)
ドノヴァンの名乗りシーンは、実を言うと東映版スパイダーマンのパロディを考えていた。
「宇宙格闘技世界チャンピオン」とか下書き寸前まで入っていたのだ。
ところが実際に絵面にすると予想以上に滑っている雰囲気があり、
またスパイダーマンのポーズを取ってないと、パロディとして認識されづらいこともあってボツに。
パロディとはめたらやったら入れればいいというものでもない。
エキゾチウムバーストの返し技として出ているラットスプレッドとは
ボディビルにおける代表的ポーズのひとつ。
これも分かる人にだけわかればいいと思って特に解説めいたことを言ってないが、
第十話では「マッスルポージング拳法」として
どんなものかだいたい伝わるような展開を作ってある。
第十話のネタ振りにもなってるわけだな。
ナムが「時間稼ぎをしろ」と策を言ったシーンから、
まりんが逆さになってやられているシーンの間には、
本来ドノヴァンの活躍があったのだが大胆にカットした。
それを入れるとドノヴァンの強さがより強調されたかもしれない一方、
一話分のページ数を完全にオーバーしてしまう。
この手の強敵の初戦闘シーンは
サッと現れて実力を見せてパッと帰ってしまうくらいのテンポが最適。
だからこの辺りのカットもテンポ上仕方がない。
そのカットされた分を念力ロープで振り回すシーンへと集約した。
最後にナムがドノヴァンを誘導してやりこんでしまう展開はずっと前から決めていたが、
どうやりこめるかと言えば、これはもうギャグマンガとして落とすには
膨らませて破裂させるしかない。
ドリフの昔から爆発はオチの王道のひとつであり、
また爆発するまで無理しちゃうところにドノヴァンのアホっぷりも示せる。
ネームでこのオチが決まったときには
「途中の過程はどうあれ、いいオチができたのでこれでよし!」
と非常に満足したものだ。
実際の反応も悪くなかった。
しかし現場とナムとメフモットの三つの視点が構成を圧迫し、
描くべきものを描けなかったかなという反省点がある。
ううむしかしそうしないと解説しづらいシーンもあったことは事実でううむ…。
この反省からか、第十話は非常に視点の少ない、冒頭こそマックスの視点だが、
ほぼまりんのみの視点で動くお話になっている。
(それを意識的にやってないのがプロとしてどうなの)
アメリカンプロレスやマイナーなゲームなど、いつもより分かりづらいネタは多いが、
話そのものは分かりやすくて面白くなったんじゃないかと思うなあ。
~今週の映画~
今回はアメリカ産のストップモーション日本人形劇「KUBO」の感想
あらすじ
ある村近くの断崖で、母サリアツと暮らす少年クボは、片目ながら特殊な能力があり、
三味線を奏でると折り紙を生き生きと動かすことができた。
クボはその力を使い、村で見世物をして生活をまかなっていたが、
「夜になったら外に出てはいけないよ」と母親から言いつけられていた。
それは彼の残った目を狙う邪悪な祖父から守るためであった。
ところがお盆に亡くなった人の霊に会えると聞いたクボは、
勇者であった父に会いたい一心で、日暮れ時まで川べりに居残ってしまう。
月明りこそが祖父のまなざし。
クボの存在を知った祖父は、彼の母親の姉妹を送り込んで捕獲を狙う。
恐るべき祖父に対抗するには、かつてクボの父ハンゾウが手に入れたという
三つの武具を手に入れるしかない。
サリアツは姉妹と戦いながら、自らの命と引き換えにクボを遠く北国に送り込んだ。
去年の話題の映画の一本である。
一週間に平均3秒くらいしか作れない、気の遠くなるようなストップモーションアニメだけで
一時間半以上の映画を作ってしまう、海外のこの手の人形アニメーターの根気には恐れ入る。
さて海外の人がこういう日本の諸文化を描く作品を作ると、だいたいおかしい描写が多いのだが、
本作はかなり慎重なリサーチを行ったらしく、特段にオカシイ文化描写は見当たらない。
北国に行って以降、日本とは思えない状況があるけど、そこはファンタジーなのでまあOK。
文化描写を抜きにしても、ほげええと感心してしまうのが人形の表情の豊かさと
人形劇とは信じられないほど広範なカメラワークだ。
特に冒頭から登場する村の親切なお婆さんが
まるで生きている人間から型でも映したかのようなリアルさと起伏のある表情を見せるのは圧巻。
日本の芝居って、実写にしろ二次元にしろここまで感情の起伏を強調しないからなおさらかな。
カメラワークについては、クボが住んでいる断崖を駆け下りて村へ行くシーンで
ぐいぐい視点が遠ざかって、断崖のピラミッドのような全容が明らかになっていくパンとか
ちょっと実写でもなかなか(大作じゃないと)ないのに、
よく撮ったな、どうやって撮ったんだと。
これと同じように感心するシーンが随所にある。
…まあハリーハウゼンの時代と違って、CGの合成も使ってるみたい。
何にせよ、こうした広いパンで人形劇を人形劇と思わせない世界観を見せているのだ。
見習いたいところである。
撮影技術や演出力の高さにばかり思わず目がいってしまいがちだが、
ストーリー面もクボの成長を描く冒険譚に思わせて
実は家族を描いているのだと気づかされる段にはハッとして思わず涙。
…でも今考えると、この辺がいかにもアメリカの子供向けだなあと残念な面も。
アメリカの大作アニメって、どうしても「家族」ばかり描いてそこから抜けられないんだよね。
祖父との対決も、結局は家族の問題として収束してしまう。
それがつまらないわけじゃなかったんだけど。
子供向けだからと暴力的な結末を避けるのも
子供向けだからと侮った結末にしたくないのも
どちらも正しい。
結論を出せない難しい問題である。
そういや最後にキャストを見てびっくり。
クワガタという武士の声を話題のピエール瀧が演じてたのね。
海外の動画配信サービスじゃなかったら配信が中止されてたんだろうか…。
なんやこれは、これでも夏か?
という状況だったんだけど、先週になって急激に気温が上がって30度くらいになり
と思ったらその次の日には下がって20度くらいになり
と思ったらまた次の日には30度くらいになるという
極端な上げ下げで日常生活を送っているだけなのに体が壊れそう。
今週中はずーっと30度くらいの気温が続くらしく、
家が冬向けの構造をしている北海道では、
夏場の本州方面に勝るとも劣らぬ地獄になりそうな予感。
…基本北海道民の家にはエアコンとかないですし。
先週半ばからジャイアントまりんの10話が始まったんだけど、
ニコニコの方に「こんな意味のない更新形式やめませんか」
なる書き込みがあった。
意味のない更新形式というのは一日一ページ更新のことだろうが、
これを「意味がない」と言ってしまうのはニコニコだけでの見方でしかないと応じておこう。
ニコニコでは「新規投稿(つまり新しい話を投稿)」した時しか
トップページに表示されないのだが、
マンガハックなど他のサイトでは、新規投稿でなく従来の話に1ページ足しただけでも
「新規更新」としてトップページに表示されるのだ。
これが意外と馬鹿にしたもんでもない。
例えばマンガハックでは不動の地位にある「王様ランキング」や「ガリャ山ポヨ美」は
ある程度まとめて更新されるが、それが「今日のランキング」に表示されるのは
せいぜい一日か二日程度である。
これはその時だけ集中的に見られてすぐに落ちてしまうから。
しかしジャイアントまりんは毎日更新形式のおかげで、
調子のいい時は一か月くらいずーっとランキングに名を連ねていたことがある。
これは宣伝面においてとても重要な効果だ。
いやまあ「描きためがあって余裕があるんでしょ、もっと公開してほしい」
という気持ちも分かる。
しかし描きためがあるのも、日程的余裕をもって製作してるのも
「(病気や不幸など)不慮の事態で描けない時の備え」であり、言うなれば予備日だ。
本編を描き終わった後には電子書籍用のおまけや表紙イラスト、
あるいは今後登場するキャラやメカの設定を作って、
それでも残った日にエッチ気味なイラストを描いていたりするわけ。
そのイラストだって、僕自身の宣伝と練習のために描いてるんで
単なる暇つぶしと言うわけでもない。
そのあたりご理解いただければ幸いである。
というのをニコニコにコメントとして入れると「ああだこうだ」と言い合いになりそうなので
(ニコニコにはそういう雰囲気がある)、ここに書いた。
コメントした人が読んでくれるかどうかはわからないが…。
以上、本日の前置き。
ここからは先週全編公開したジャイアントまりん第九話の製作裏話をしていこう。
第九話はこの漫画における最強のキャラクター・ドノヴァンが自らやってきて、
こいついったいどうしたらええねん…と
いわゆる「ラスボスがいきなり現れて、主人公に実力差を見せつける回」なのだが、
そこにおとぎ話さながら「頭のいい(こずるい)少年が怪物を知恵でやりこめる話」
をミックスすることでギャグ漫画としての落としどころを作った。
ドノヴァンは設定的には何でもできる「神」に等しいキャラで
アメコミでいうところのドクターマンハッタンみたいなやつである。
マンハッタンは、DCユニバースの名だたるヒーローが束になっても勝てないバケモンで
その強さの一端として彼が元時計職人かつ科学者…つまりインテリ層だからというのがある。
ドノヴァンはそのインテリ部分を全部とっぱらって脳筋に交換。
最強だし、ナムとまりんにとっては敵だが、
悪だくみできるような知恵もないので悪ではない。
コメディ、ギャグマンガの登場人物にふさわしいある種の可愛げを与えたのである。
宇宙一の天才を自称するナムですらお手上げというドノヴァン。
しかしこのナムのセリフが、すでに読者やまりんに向けてのブラフになっている。
宇宙一の天才が「宇宙一強くて神に等しいドノヴァンが
いつかやってくることを予想していないわけがない」のだ!
まりんにあたえた策で時間稼ぎすれば、その日はドノヴァンが撤退に至るかもしれない。
しかし彼が五体満足であるかぎり、また次の日現れるかもしれない。
ナムの狙いは最初から、当面ドノヴァン自身がやってこれないだけのダメージを与えること。
敵を騙すにはまず味方から、を実践したのである。
いやな子供だなあ。
こうした作戦方面は、我ながらそこそこ上手くえがいたなあとは思ったが、
一方でしくじったなと思ったのはマイクロブラックホールの件。
最初はブラックホールの入ったバーベルを持ち上げるという構想だった。
でもそれじゃビジュアル的に面白くない。
じゃあブラックホールから噴出する宇宙ジェットを支柱にしようぜ、
とSF的にあほな設定を考えて自分でウケた。
しかしネームができた時点で、ブラックホールの解説ページを入れる隙間がどこにもない。
…いやー、でも分かる人だけ分かればいいかー。
といつもの(オタクネタな)ノリでGOを出してしまう。
実際の投稿を始めてからこのあほな図が読者に伝わってないことに気づき、
急遽途中のページで欄外に解説を入れるハメになった。
まあそうよね。アニメ漫画ゲームのネタに比べると
ブラックホールの構造とか詳しい人口って少ないよね。
我ながらたまに視野狭窄でやってしまうミスである。
反省して有料版にはちゃんとした解説ページを入れることにした(反省…?)
ドノヴァンの名乗りシーンは、実を言うと東映版スパイダーマンのパロディを考えていた。
「宇宙格闘技世界チャンピオン」とか下書き寸前まで入っていたのだ。
ところが実際に絵面にすると予想以上に滑っている雰囲気があり、
またスパイダーマンのポーズを取ってないと、パロディとして認識されづらいこともあってボツに。
パロディとはめたらやったら入れればいいというものでもない。
エキゾチウムバーストの返し技として出ているラットスプレッドとは
ボディビルにおける代表的ポーズのひとつ。
これも分かる人にだけわかればいいと思って特に解説めいたことを言ってないが、
第十話では「マッスルポージング拳法」として
どんなものかだいたい伝わるような展開を作ってある。
第十話のネタ振りにもなってるわけだな。
ナムが「時間稼ぎをしろ」と策を言ったシーンから、
まりんが逆さになってやられているシーンの間には、
本来ドノヴァンの活躍があったのだが大胆にカットした。
それを入れるとドノヴァンの強さがより強調されたかもしれない一方、
一話分のページ数を完全にオーバーしてしまう。
この手の強敵の初戦闘シーンは
サッと現れて実力を見せてパッと帰ってしまうくらいのテンポが最適。
だからこの辺りのカットもテンポ上仕方がない。
そのカットされた分を念力ロープで振り回すシーンへと集約した。
最後にナムがドノヴァンを誘導してやりこんでしまう展開はずっと前から決めていたが、
どうやりこめるかと言えば、これはもうギャグマンガとして落とすには
膨らませて破裂させるしかない。
ドリフの昔から爆発はオチの王道のひとつであり、
また爆発するまで無理しちゃうところにドノヴァンのアホっぷりも示せる。
ネームでこのオチが決まったときには
「途中の過程はどうあれ、いいオチができたのでこれでよし!」
と非常に満足したものだ。
実際の反応も悪くなかった。
しかし現場とナムとメフモットの三つの視点が構成を圧迫し、
描くべきものを描けなかったかなという反省点がある。
ううむしかしそうしないと解説しづらいシーンもあったことは事実でううむ…。
この反省からか、第十話は非常に視点の少ない、冒頭こそマックスの視点だが、
ほぼまりんのみの視点で動くお話になっている。
(それを意識的にやってないのがプロとしてどうなの)
アメリカンプロレスやマイナーなゲームなど、いつもより分かりづらいネタは多いが、
話そのものは分かりやすくて面白くなったんじゃないかと思うなあ。
~今週の映画~
今回はアメリカ産のストップモーション日本人形劇「KUBO」の感想
あらすじ
ある村近くの断崖で、母サリアツと暮らす少年クボは、片目ながら特殊な能力があり、
三味線を奏でると折り紙を生き生きと動かすことができた。
クボはその力を使い、村で見世物をして生活をまかなっていたが、
「夜になったら外に出てはいけないよ」と母親から言いつけられていた。
それは彼の残った目を狙う邪悪な祖父から守るためであった。
ところがお盆に亡くなった人の霊に会えると聞いたクボは、
勇者であった父に会いたい一心で、日暮れ時まで川べりに居残ってしまう。
月明りこそが祖父のまなざし。
クボの存在を知った祖父は、彼の母親の姉妹を送り込んで捕獲を狙う。
恐るべき祖父に対抗するには、かつてクボの父ハンゾウが手に入れたという
三つの武具を手に入れるしかない。
サリアツは姉妹と戦いながら、自らの命と引き換えにクボを遠く北国に送り込んだ。
去年の話題の映画の一本である。
一週間に平均3秒くらいしか作れない、気の遠くなるようなストップモーションアニメだけで
一時間半以上の映画を作ってしまう、海外のこの手の人形アニメーターの根気には恐れ入る。
さて海外の人がこういう日本の諸文化を描く作品を作ると、だいたいおかしい描写が多いのだが、
本作はかなり慎重なリサーチを行ったらしく、特段にオカシイ文化描写は見当たらない。
北国に行って以降、日本とは思えない状況があるけど、そこはファンタジーなのでまあOK。
文化描写を抜きにしても、ほげええと感心してしまうのが人形の表情の豊かさと
人形劇とは信じられないほど広範なカメラワークだ。
特に冒頭から登場する村の親切なお婆さんが
まるで生きている人間から型でも映したかのようなリアルさと起伏のある表情を見せるのは圧巻。
日本の芝居って、実写にしろ二次元にしろここまで感情の起伏を強調しないからなおさらかな。
カメラワークについては、クボが住んでいる断崖を駆け下りて村へ行くシーンで
ぐいぐい視点が遠ざかって、断崖のピラミッドのような全容が明らかになっていくパンとか
ちょっと実写でもなかなか(大作じゃないと)ないのに、
よく撮ったな、どうやって撮ったんだと。
これと同じように感心するシーンが随所にある。
…まあハリーハウゼンの時代と違って、CGの合成も使ってるみたい。
何にせよ、こうした広いパンで人形劇を人形劇と思わせない世界観を見せているのだ。
見習いたいところである。
撮影技術や演出力の高さにばかり思わず目がいってしまいがちだが、
ストーリー面もクボの成長を描く冒険譚に思わせて
実は家族を描いているのだと気づかされる段にはハッとして思わず涙。
…でも今考えると、この辺がいかにもアメリカの子供向けだなあと残念な面も。
アメリカの大作アニメって、どうしても「家族」ばかり描いてそこから抜けられないんだよね。
祖父との対決も、結局は家族の問題として収束してしまう。
それがつまらないわけじゃなかったんだけど。
子供向けだからと暴力的な結末を避けるのも
子供向けだからと侮った結末にしたくないのも
どちらも正しい。
結論を出せない難しい問題である。
そういや最後にキャストを見てびっくり。
クワガタという武士の声を話題のピエール瀧が演じてたのね。
海外の動画配信サービスじゃなかったら配信が中止されてたんだろうか…。